POXIE Trail
#2 繰り返しと効率化とゲームプレイと
Last update: 2025-FEB-12
25年前の、幼き日の私は、大人になってもゲームばかりする人間になるのかなと思っていたが、本当にそうなった。
基本的にSteamのゲームを起動しない日はないし、暇さえあればなにかゲームをプレイすることが多い。
……本当にそうだろうか?
効率化とreplayability
これもまたかなり前の話になる。
Skyrimをプレイしていた私は、あることに気がついた瞬間にプレイをぱったりやめてしまった。それはソルスセイム島でアッシュスポーンを狩りつくし、宝石を採掘し、金属を採掘し、アクセサリーを作り、それを売りさばいてゴールドを稼いでいるだけの自分に気がついたからだった。
戦闘スタイルも、敵の後ろに回り込み、ダガーで首をかっさばく以外のやり方がなく、あまりにもプレイ時間のほとんどを変化がなく、単調なものに自然と効率化させてしまっていたのだ。その頃の私は記憶が確かであれば、その生活自体がかなり単調な苦しさを抱えていた時期でもあり、単調であること、変化がないこと、それ自体にほんのりと嫌悪感を抱いていたのはのちにわかることである。
また、他のゲームでも例がある。Brawlhallaを意味もなく、ただ初心者狩りに興じているのに嫌悪感を感じたときもあり、それもまた年単位のブランクを産んだ(今でも時折やるんですが同様の理由で正直つまらないです)。PAYDAY 2もまた同様のゲームであった。Shadow RaidをひたすらECM Raidで回収していたり、Overkill程度の難易度の同じPlan Bを回し続けていて、得た金を使うことも、アカウントをリセットすることもなく、全く代わり映えがしなくなったころ、はたとプレイをやめた。Grand Theft Auto Onlineも、パシフィック・スタンダードをひたすら襲う日々。コミュニティによって編み出された最適解にひたすら打ち込み、得たGTA$を使うこともなく、ただ数百万GTA$だけを積み上げていった。
すべて同じ理由だからだ。変わらなくなったから。
効率化は罪か
特定のパラーメタに着目してゲームをプレイすれば、これは紛れもない「やりこみ」だ。しかし、これらのゲームをこうした方法でやり込むことに、そんなに意味があったかというと、もちろんない。どちらかというともう少しいろんな楽しみ方をしたいと思っていても、どうにも私の頭が固いのか、どこか一つのプレイに偏ってしまい、最終的にそのゲームは「死んで」しまう。おそらくこれがここ最近ずっと感じているサンドボックスゲームへのあこがれである。目的がないことによる、目的の生産を必要とするゲームというわけだ。ある意味、創作活動もこれにあたる。アバターを作るのもなんとなくそんな感じがする。
この感じ方にもまた罠があり、ゴールの設定に失敗すると、これまたゲームが死んでしまう。それ以外にやることといえば、SNSかその程度なので、ただ停滞する水のような、濁った生き方をしたくないということを人生の至上命題の一つにする私にとっては、ゲームをすることはそれの打開の方法の一つであるにも関わらず。
時間だけが過ぎること自体が罪なのか、後に何も残らないのが罪なのか。
変わることへの恐れ
私が人生で最も恐れていると感じていること。それは私の心変わりである。心変わりはすべてを可能にする。これまで信じていたものを破壊することも、これまで恐れていたものを愛することも。
過去の方を向くことのほうが得意な私にとって、これは眼前に広がる人生とその歴史を否定することである。ただ私の存在を認められることが大切な私にとって、自らで自らの首を絞めるような行為の恐れは必然なのだ。
この一貫性の破壊ともいえる心変わりは、同時にゲームプレイに一貫性を求めないという心と表裏一体なのではないかとも感じる。
私のライフワークとしてのゲームプレイは、どこに帰着点を見出すのか?